まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

わたしは、赤毛のアンが大嫌いだった。

本が大好きな子供だったわたしですが、
実は赤毛のアンがある時期まで大嫌いでした。
 
「明日はいつもまだ失敗のない新しい日」
「曲がり角を曲がれば、きっと素敵なものが待っていると思うの」
そういうアンの言葉のまばゆさが、
小さかった頃のわたしには苦痛でならなかったのです。
 
みなしごでこそなかったけれど、
愛されていたとは思えない生活を送っていたわたしは、
アンに嫉妬していたのだと思います。
また、わたしを虐待していた姉が赤毛のアンの大ファンだったことも、
わたしにアンをますます嫌いにさせました。
 
いつも優しくアンを見守り、惜しみない愛を注いだマシュウ。
厳しいけれど、心の中ではアンを深く愛していたマリラ。
腹心の友ダイアナ。
アンのライバルであり、信奉者でもあるギルバート。
そんな温かい人々に囲まれて、
「みなしご」ということを除けば、全てに恵まれて愛されて。
素晴らしい頭脳と才能、やがては美貌にも恵まれて行くことになるアンが、
わたしはねたましくて仕方がなかったのだと思います。
 
わたしが平常心で赤毛のアンを読めるようになったのは、
大学を卒業する頃になってからのことです。
その頃には姉は結婚して家を出ていました。
子どもの頃あんなに大嫌いだったアンの世界にわたしはどっぷりと入り込み、
心を遊ばせました。
「アン、お前はわしの自慢の娘だ」。
心臓の発作で亡くなる前日、マシュウがアンにかけた言葉に、
どれだけ深い感銘を受けたことか。
 
わたしの娘は、小学校の高学年の頃ごく普通に赤毛のアンを読み、
アンのファンになりました。
そんな娘がとても嬉しいわたしです。