まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

「事実」は誰にも分からない

いじめが自殺の原因になっていたのでは?と疑われるような場合。
遺族は「真相の究明」を求め、「事実を知りたいだけ」だと言う。
 
でも、実は「事実」なんて、誰にも分からないものではないだろうか?
 
○○と××に○月×日~と言われたから、HPが○○減った。
×月○日に・・・をされたから、HPが××減った。
最終的に△に□□を言われたことがとどめになって、HPが全て消滅、
翌日自死した。
・・・という具合なら、真相究明も事実を知ることも簡単だろう。
 
でも、当たり前のことだけれど、現実の世界はゲームのように単純ではない。
言った側としては、軽いジョークのつもりだったのが、
相手のトラウマになっている部分を直撃するような内容で、
実は相手の心を心底傷つけてしまったり。
(さらに、「大丈夫?」と気遣ってくれた誰かに対して無理して「大丈夫」と答えたりね。)
いつもならさらっと聞き流せるようなことでも、家族とのトラブルを抱えていたために、
立ち直れないくらいの衝撃を受けてしまったり。
「これを言われたから(これをされたから)自殺した」
みたいな、「きれいで分かりやすい理由」で自死する人など、ほぼいないのではないか。
 
東君平さんの書かれた詩に、君平さんがかつて自死を決意したものの、
踏みとどまった時の心情を詠ったものがある。
 
(中略)
いつか こころが
かんがえている
このさきもいきる
ほうほうを
 
すがりつける逃げ道があるうちは、みんなそこにすがりついて生きようとするのではないだろうか。
子どもたちで言えば、本来セーフティーネットのように、
子どもたちの周りに張られているはずの人間関係のネットワーク
(例えば、家族関係、近所の知り合い、クラスメイト、部活の仲間、学校の先生など)の全てが、
どれもその子を救うための力を失った「機能不全」状態に陥り、
「どれにもすがることが出来ない、もう逃げ道がない」
とその子が判断してしまったときに、最悪の「自死」という結末に至るのではないのだろうか。
 
「真相の究明」を求め、「事実を知りたいだけ」と言う遺族の心の中には、
残酷だけれど、自分の子供が死に至った経緯についてのシナリオが出来ているような気がする。
それに合致しないような調査結果である限り、
「誠意がない」「きちんと調査がなされていない」「事実を隠ぺいしている」と断罪するような・・・。
 
でも、実は誰にも真相は分からない。
いじめの「当事者」とされている子たちにだって、なぜその子が自死してしまったか、
何をどう感じ、どう考え、どう追い詰められて自死したかは決して分からないからだ。
真の意味での「真相」を知っているのは、自死した子本人と、
あとは全能の神だけなのだろう。