まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

「特別」が減っている

ボランティア活動終了後、仲間といつもおしゃべりする。
今日は小さかった頃の話に花が咲いた。
 
仲間のAさんは60代の女性。
Bさんは私の一つ年上のギリギリ40代の女性。
そして昭和41年生まれのわたし。
 
小さかった頃見たもの聞いたものについて、
「大好きだった!」「待ち遠しかった!」「ワクワクした!」などと
目をキラキラさせながら話したわたしたちだったけど・・・。
 
ふと気づいたことがある。
「今の子供たちがこんなに目をキラキラさせることが何かあるだろうか?」
子どもがいるBさんとわたしの二人は「うーん・・・」と考え込んでしまった。
 
今の子どもたちは見たいと思えばテレビ番組の録画を何度でも見られる。
好きな場面だけ繰り返すことも、反対に好きじゃない場面を飛ばすことも出来る。
録画を忘れたら好きなときに動画サイトで見ればいい。
気に入った番組だけ(違法だが)ダウンロードして、自分の音楽プレーヤーに入れて
好きなときに好きなだけ見ることだって出来る。
友達ともお望みとあれば真夜中にでも親に全く知られずに連絡し合える。
音楽だって動画サイトで聞き放題、(違法だが)好きな曲を好きなだけダウンロードし放題だ。
わたしたちが小さかった頃と比べて、あらゆることが便利で身近になった気がする。
 
でも・・・。
何でも望み放題、叶え放題の生活からは「特別」が失われてしまった。
一年に一度だけのお楽しみ、一週間に一度だけのお楽しみ・・・。
わたしたちが小さかった頃、胸躍らせてその日を待ち焦がれたときのジリジリするような感じ、
そしてようやくその日が訪れ、楽しみにしていたものをやっと目にしたり手にしたり出来た時の
まるで爆発するかのような激しい喜びを、
今の子どもたちは味わうことなく大人になるしかなくなってしまったのだ。
それは、目先の「便利さ」なんかでは補うことが出来ないくらいの大きな損失だと思う。
 
今どきの子どもと比較すると、「浮世離れしてる」としか言いようのないうちの子たちでさえ、
年の割にはドキドキワクワクが足りないなあ、と感じているんだけどね。
子どもたちがあふれるような喜びを感じることなく大人になるってことは、
多分いろいろな意味で日本の基礎体力を低下させることに他ならないんじゃないかなあ。