まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

全ての事柄は、多面体で出来ているのだ~ときどき「ちりとてちん」~

「わたしはA子の何をみてたんやろ」
年取った喜代美のナレーションで終わった今日の放送分。
 
全ての事柄は、多面体で出来ているのですねえ、つくづく。
当てる光の角度を変えることによって、
まるで別の物のように見えて来るものなのですねえ。
 
「青い鳥」の物語も、そういうお話なのだとか。
チルチルとミチルの二人は、実はあの部屋から一歩も出ていないのだ、
物事の捉え方を変える(=帽子に付いているダイヤモンドを回す)ことによって、
同じ世界が全く違う見え方をするようになるのだ、
というような寓話なのだそうです。
 
喜代美の目から見たA子。
母親が身近で見ていた姿から浮かんで来たA子。
喜代美は、ずーっと身近で見て来てよく知っていると思い込んでいたA子という人物が、
実は自分が考えていたのとは全く違っていたことに愕然とします。
そして、A子の中での「喜代美」という存在が、
自分が感じていた、「A子の陰の存在のB子」と言ったものとは
まるで違っていたことに愕然とするのです。
 
そして、もう一人、光の当て方を変えると全く違う人物になる者が。
吉田仁志こと、徒然亭小草若です。
他の人から見えている小草若は、「あの」草若師匠の実子であるにも関わらず、
全く落語が上達することもない、ある意味ダメ落語家。
一世を風靡した「底抜けに~」ブームが去った後はもう何もなくなってしまった、
「あのひとは今」状態の徒然亭のお荷物みたいな存在にしか見えません。
それを草々に厳しく指摘されても、やる気があるんだかないんだか。
もう「自分は落語が下手なんじゃ、それが小草若なんじゃ!」と
開き直っているように見えることさえあります。
でも、その実胸の内では、そんな自分ではいけないと焦り、
「徒然亭草若」という大名跡に押し潰されてしまいそうになっているのです。
 
東京に行ってひどい目に遭い、すっかりやさぐれてしまったように見えるA子。
ブームも去ってしまい、すっかり人気が凋落して尾羽打ち枯らしたように見える小草若。
でも、そんな二人も、光の当て方次第でまた輝くようになるんじゃないのかな?
と思わせるような、今日の「ちりとてちん」でした。
 
自分の光の当て方だけではなくて、
違う光の当て方が出来るようになると、
物事はより複雑で美しい光を放って見えるようになるものなのでしょう。
それがかっこよく言うと、「人生の修養」ってやつなんですかね。