まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

「フェッセンデンの宇宙」のように

時々ぼんやりと考える。
お皿を洗いながら、野菜を刻みながら。
とてつもなく大きなことと、とてつもなく小さなことについて。
 
まず、とてつもなく大きなことについて考える。
宇宙の始まりは「ビッグ・バン」と呼ばれる大爆発だと言われているけれど、
それが一体何だったのかと。
現在の宇宙も「ビッグ・バン」の名残でどんどん膨張していて、
それは少なくとも135億年以上前に起こったものだと考えられているそうだけど。
実は全然そんな話じゃなくて、もしかして、わたしたちの宇宙それ自体が、
何かとてつもなく大きなものが、その世界の湖の水をほんの1滴、
観察するためにプレパラートに垂らしたものだったならと。
わたしたちが「135億年」と感じている時間の長さが、
その「とてつもなく大きなもの」の世界では、
垂らした1滴の水が広がる、ほんの一瞬のことだったならと。
わたしたちが考える「島宇宙」の栄枯盛衰が、
実は、その1滴の水の中でバクテリアがくっついたり離れたり、
生まれたり死んだりするようなことだったならと。
そして、その「とてつもなく大きなもの」のことを、
昔からどこの国の人たちも、もしかしたらどの「島宇宙」の住人たちも、
漠然と「神」という概念でとらえて来たのだったならと。
さらに、その「とてつもなく大きなもの」の存在する世界もまた、
さらに大きなものがプレパラートに1滴垂らした水の中の世界だったならと。
そして、そのさらに大きなものが存在する世界もまた、
それ以上に大きなものがプレパラートに1滴垂らした水の中の世界だったならと。
 
次に、とてつもなく小さなことについて考える。
わたしたちが「もうこれ以上は小さく出来ない」と考えている原子、
その中にも実は極小の宇宙が丸ごと入っているのだとしたなら。
そして、その極小の宇宙の住人たちが「もうこれ以上は小さく出来ない」と考えている、
極小の宇宙における「原子」の中にも、実はさらに小さい宇宙がまるごと入っているのだとしたなら。
そして、そのさらに小さい宇宙の住人たちが「もうこれ以上は小さく出来ない」と考えている、
さらに小さい宇宙における「原子」の中にも、それ以上に小さい宇宙がまるごと入っているのだとしたなら。
そしてさらに・・・という具合に、
実はこの世界全体が無限の「マトリョーシカ」状態になって存在しているのだとしたなら。
その中にそれぞれ、無数の恒星や、さらにその周りを回る惑星や、その衛星が存在し、
様々な形態の生命が存在し、争ったり、愛し合ったり、
生まれたり、死んでいったりしているのだとしたならと。
 
ぼんやりとそういうことを考えていると、
わたしは、自分の脳みそが無限に広々として行くような、不思議な感覚に陥る。
そして、こんなに小さな星の上で、争ったり殺し合ったり憎しみ合ったりするのが、
どうにも馬鹿らしいことに思えてきて仕方がなくなるのである。