まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

よく死ぬこととは、よく生きること~ときどき「ちりとてちん」~

久しぶりの更新であります。
「稀に『ちりとてちん』」と書庫名を変えなくちゃいけないかな?ってくらいに。
 
草若師匠の命が尽きかけております。
まさしく、夏の終わりを迎えようとする蜩(ひぐらし)のように。
 
今まで、1週間単位でめまぐるしく登場人物たちの物語を紡いでいたドラマが、
草若師匠との永遠の別れを惜しむかのように、
優しくゆったりとしたテンポで、丁寧に一人の人物の人生の終焉を描いています。
 
逝かないで欲しい、師匠、どうか元気になってください・・・。
ただの視聴者に過ぎないわたしも、
祈るような気持ちで毎日ドラマを見守っています。
でも、脚本家は、わたしたちにそういう視点とは別の見方を要求しています。
今週月曜放送分の最後、「師匠はもうこの頃には
自分の命がそう長くないことを知っていたのかもしれません」
という喜代美のナレーションが入りました。
「これから、草若師匠の人生の最終章を描きますよ、
それがどういうものなのか、心して見守ってください」という、
脚本家からの強いメッセージがこめられたものであることに、
このドラマを見るのが2回目のわたしはようやく気づきました。
 
6年前、このドラマを初めてみたときと、再びこのドラマを見ている現在と。
わたしはその間に、小さかった頃可愛がってくれた叔父の死と、
母と父の死とを経験しました。
「身近な人間の死」というものをいくつも経験して、
10人いれば10の死の形があることを知りました。
(まるで「饅頭こわい」みたいですね)。
叔父のお葬式のとき、お坊さんが説話でおっしゃっておられたことを思い出します。
「よく死ぬこととは、すなわちよく生きることなのです」と。
 
これから、もう1週間分かけて綴られる草若師匠の最期は、
そういう意味で言ってまさしく「人間の理想の死にざま」です。
わたしも、心して、草若師匠の最期を見守って行こうと思います。
 
「『死』とは、医療行為の敗北を意味するものではない。
人生最後の行為である」
~パッチ・アダムス(ホスピタルクラウン活動を進めるアメリカの医師)~