まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

いじめは「リアル版モンスターハンター」だ

夫の知人の子供さんが自死した。
まだまだ「子ども」と言っていい年だった。
 
遺された日記から、友人から「いじめ」を受けていたことが分かったそうだ。
学校が定期的に行っていた「いじめ調査」では、
決して表面化することはなかったけれど。
 
夫の知人の無念さを思う。
そして、何よりも自らの手で自らの人生を終わらせてしまった、
その子の無念さを思う。
 
いじめ問題と言うと、必ず
「どうやっていじめを無くすか」ということが議論になる。
 
・・・アホか、と思う。
 
いじめは決して無くならない。
なぜなら、いじめる側にとっていじめは楽しいものだからだ。
 
それは、ある意味戦争が決して無くならないのと同じこと。
戦争は人々に何とも言えない昂揚感と連帯感を生むものなのだ。
(悲惨だった、と思うのは全てが終わった後になって感じることなのだ、
と亡くなったとうさんが言っていた)
 
いじめる側の子たちも、特定の子をターゲットにしていじめることで、
何ともいえない昂揚感と連帯感とを感じている。
・・・まるで、「モンスターハンター」に参加する人々のように。
 
だから、いじめは決して無くならない。
いじめで自死する子を無くそうと思ったら、
いじめられている子からの微かなサインを受け取り、
そこから助け出す方法を考える方がよほど現実的だ。
 
どの親も、どの教師も、みな大人たちは忙しすぎではないか。
高速道路を時速100キロで飛ばしているときのように、
周囲の細かいことに気付くことが出来ないようなスピードで生きてはいないか。
2点を結ぶ最短コースをトップスピードで走るような生き方のみを是とし、
それを子どもたちにも強いてはいないか。
 
自戒の念をこめて、いろいろと考える。
 
しかし、いくら考えてみたところで、
失われた命が戻って来る訳ではない。
 
いじめられている子たちに言いたい。
確かに、キミたちは集団に狩られる立場だ。
でも、ゲームの中と違うのは、キミたちにはその世界から抜け出す方法があるということだ。
自分では袋小路のどん詰まりに追い詰められてなす術がないように感じていても、
大人の目で見れば必ず抜け出す道はある。
子どものキミたちの人生に「もうお終いだ」というようなことは決して起こらない。
 
だから、どんなことがあっても、
決して決して死んではいけない。
 
こんな人気のないブログの片隅に何度綴ってみたところで、
何の効果もないと分かってはいるが、何度でも繰り返す。
 
決して、決して、死んではいけない。