まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

前後際断

お墓参りに行った帰りに、
M子おばちゃんの家に寄って話をしてきた。
 
M子おばちゃんは、とうさんの弟のお嫁さん。
とうさんの弟は、おばちゃんと結婚してたった1年後に脳卒中で倒れ、
わずか24歳で半身不随になってしまった。
以来、おじちゃんが昨年77歳で亡くなるまでの半世紀以上、
おばちゃんはおじちゃんが再発しないように食事に気を付け、
自分も和文タイプや内職の仕事などをいくつも掛け持ちして働き、
最後は神経系の病気で寝たきりになったおじちゃんの介護もしたという、立派なひとだ。
でも、M子おばちゃんのすごいところは、
本当に聡明で芯の強いしっかり者でありながら、、
ほんわかした雰囲気の、大変に優しい気持ちの持ち主でもあるということだ。
(だから、うちのかあさんは、M子おばちゃんのことを、
「ぼんやりしてる」「うっかり者」
「話し方がグズグズしてるし手のろいし、あの人を見てるとイライラする」と評していた)
 
子供の時以来、多分30年ぶりくらいで家を訪ねたというのに、
おばちゃんはわたしを歓迎してくれた。
子供の時みたいに、イチゴや、お菓子や、いろんなものを出して歓待してくれるおばちゃん。
「よく来てくれたねえ」という言葉に嘘がない。
外交辞令で言ってるのじゃなく、本心で言ってくれていることが伝わって来て嬉しかった。
 
おばちゃんは、時折グスグス泣きながらのわたしの話を一生懸命聞いてくれた。
全然愉快な話じゃなく、結構聞いていて気持ちが暗くなるような内容のことも多かったのに、
おばちゃんは嫌な顔一つせずに全て受け止めてくれた。
とうさんが浮気していた話や、ねえさんの義理の弟の病名などは話さなかったけれど、
その他のことは少しオブラートに包んだりもしたけれど正直に話した。
おばちゃんは初めて聞く話にびっくりしたりもしていたけれど、
ものすごく記憶力のいい人なので、「ああ、それであの時お父さんがこんなことを言ったんだね」とか、
いろいろ腑に落ちなかったことが納得出来るようになった、と言っていた。
 
何時間か話を聞いてから、おばちゃんはわたしに言葉を贈ってくれた。
「前後際断」。
元々は仏教用語だったそうで、精神を前際(過去)にとどめず、後際(未来)に遣らず、
全力を挙げて現在のことに向かうことを言うそうだ。
「いろいろあって辛かったね。でも、とらわれてはいけないよ。
いろんなことがあったとしても、あなたには幸せにしてやらなければならない子供たちがいるし、
仲良く暮らして行かなければならない旦那さんもいる。
辛かったことにとらわれずに、そういう人たちと幸せに暮らすことに力を注ぎなさい。
お父さんはきっと、あなたに感謝の気持ちしか持っていないと思うよ。
あなたに最後まで心を尽くして面倒を見て貰えて、幸せだったと思う。
家のことやなんかについて、何も気にしてないと思うよ。
だから、昔のことにとらわれたり、お姉さんとのこれからのことに思い煩う必要はないの。」
そして、温かい笑顔でこう言ってくれた。
「今日はうちの娘は仕事で留守だったけど、今度は家にいる時に来て。
三人でご飯を食べたりお話したりしましょうよ。
きっと、とても楽しいわよ。是非、また来てね。」
またしても、言葉に嘘が感じられなかった。
本当にありがたく、もったいない言葉だった。
 
「前後際断」。
おばちゃんからもらったこの言葉を大切に、
これから先生きて行こうと思う。