まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

透明な箱

「透明性」と言う言葉が日本中にあふれるようになったのは、
一体いつの頃からだろう。

わたしが今働いている某NPOでもそう。
「透明性を担保しなければならない」
「いかにして透明性を担保するか」
「透明性が組織として一番大切である」等々。
(恥ずかしながら「担保」という言葉が仕事の世界で
こんなにも多用されていることを知りませんでした。
「担保」とは長年「借金のカタ」のことだと思っていたのです)

でも、そんな組織の内情は…と言うと、実はパワハラの嵐。
事実上トップの立場にある人物の、独裁状態なのだ。
週1回のミーティングは独裁者による糾弾大会。
独裁者は組織内部の人間が失敗するのを手ぐすね引いて待っている。
なぜなら、大手を振って相手を罵倒出来るから。
後出しじゃんけん方式で、「なぜこうしたのか」「なぜこんなことをしたのか」
「こういうことになるとなぜ事前に分からなかったのか」を
独裁者が延々と糾弾する間、当事者は無言のままうなだれつつ、
運よく矛先を向けられなかった他の人々は
「自分に間違って火の粉が飛んでこないように」と祈りつつ、
ひたすら拝聴するしかない。
「能力がない」「意識が低い」「何年この仕事をやってるんだ」等、
耳を塞ぎたくなるような罵詈雑言が会議室に響き続ける、
それが週1回のミーティングなのだ。
当事者に許される発言は「申し訳ありませんでした」のみ。
独裁者はストレスを発散したいのであって、
状況説明を聞いた上で善後策を検討したい訳ではないのだと、
みんなが分かっているからだ。

「透明性が担保されている」ため、「行政からも高いご信頼」を頂いており、
独裁者は地元で各種の名誉職に就き全国会議などにも散々参加して、
中央省庁からの覚えがめでたい組織の、
これが実情なのだ。
多分、これが現在の日本の組織のスタンダードなのだろう。

もはやこれは「透明性至上主義」とでも呼ぶべきものだ。
日本に蔓延している「無菌状態至上主義」の亜種かも知れない。
でも、人間という存在は透明でも無菌でもないのが現実で。
透明になったり無菌になったりすることは、
そもそも無理な存在なのだ。
それが、透明な箱の中に入れられて、四六時中すべて人目にさらされる、
そういう最高度のストレス状態の許、弱いものいじめが
横行しているのが現在の日本ではないだろうか。
わたしが働いている田舎のNPOからスポーツ界、
民間企業、もしかすると政界までが。