まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

わたしは一体何を悲しんでいるのだろう

両親の墓参りに行った。
 
父の一周忌以来行っていなかった故郷の街。
 
帰省している息子と実家を見に行った。
 
そこは工事現場になっていた。
 
姉の名で発注されたアパートの建築現場。
 
愛鳥の墓も何もかもがコンクリートの土台の下になっていた。
 
「大丈夫、お母さん?カフェにでも寄ろうか?ショックでしょう?」
 
息子が優しく言葉を掛けてくれたけれどわたしは何も感じてなかった。
 
わたしたちは高速バスに乗り込んだ。
 
疲れですぐ寝込んだ息子の隣でわたしは眠れなかった。
 
「帰る場所を永遠に失った」という気持ちで涙がこぼれた。
 
母が目印にとイチゴの苗を植えていたちいのすけの墓も無くなったことが悲しかった。
 
でも・・・。
 
じきにわたしが一体何を悲しんでいるのか分からなくなった。
 
空き家がいつまでもあったとしてもそこでわたしを迎えてくれる者はすでにいない。
 
土地も家屋も全て姉に所有権を渡したのだし好きに処分していいとわたし自身が言ったのだし。
 
住宅密集地にいつまでも空き家が存在しては防犯上も良くないだろう。
 
姉の名が施工主になっていたということは土地を譲渡しなかったということだろう。
 
姉なりに実家の財産が散逸しないように配慮したことの表れかもしれない。
 
そう考えて行けば全てが妥当な行為なのだ。
 
悲しむ要素などどこにもありはしないのだ。
 
わたしの頭は素早くそう理解したというのに。
 
わたしの心は納得が行かない、悲しい気持ちだと訴えるのだ。
 
一体わたしは何を悲しんでいるのだろう。
 
この悲しみのもとは何なのだろう。
 
いくら考えてみてもちっとも分かりはしないのだ。